アラフィフ、大学院生活を楽しんでみる

中年クライシス真っ只中の社会人大学院生。現在博士課程1年目。自閉症とコミュニケーションについて研究中。転勤族家族なので、日本中がホームタウンのつもり。仕事はパートタイムで、消費生活系相談員してます。コメント大歓迎です。

今、大切にして欲しいもの、それは言葉とのリンク。

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週明けの大学院生活スタートです。

金沢で25度を超えた今日でしたが、さすがに夕方は肌寒い雨。

今日もまた、頭ぐるんぐるんになって、自宅まで歩いて帰宅しました。

 

それだけで、心が軽くなる

本日お伝えしたいのは、やはり心を軽くする生き方の話。今日は二時限分の講義があり、担当の先生はお二人とも心理系の教授でいらっしゃいました。本当に、先生方の経験値から出てくるお話はすごいのです。

 

言語化をする。今日の私の学びの一つがこれです。

 

子どもに起こる、いろんな神経不安からくる身体症状のお話でした。不安にどう対応していくかの対処方法を習いました。

 

その中には

〇一人でリラックスできる場所を確保する 

〇リラックスグッズ(ぬいぐるみでも、ライナスの毛布でも、砂時計でもなんでも、その子が手元に置いておくだけで楽になるもの)

など、なるほどそういう光景はよく目にするなあと思うものもありました。

 

あとは、不安の数値化をしておいて、対応策を考えておくというものも。これは例えば、不安を1から5段階にしておいて、1ならまあよくて、3になったらそろそろ対応が必要だから、どうしたらよいのかなど事前に考えておくという手法です。分かりやすいし、自分で考えて行動できるところが、いいなあと思います。

 

こういう対応の中で、大人だったらすぐに取り入れて欲しいな、私はすぐに取りかからなければ! と思うものに出会いました。

 

それこそが、「感情を表す言葉をいっぱい覚えておいて使う」ということです。

 

私の場合、不安を感じたときに、その不安を表すぴったりな言葉が見つかった場合、割と早くに心を立ち直らせることが出来ます。良い気分の場合も、ぴったりな言葉を使うと、さらにいい感じになったりすることが出来ます。

 

感情を表す言葉と、実際のこころをきちんとリンクさせておくとね、やはり人生の回転数というか、動きの波が早くなるような気がします。私のお友達の中には、この感情と心を言葉でリンクさせることにとても長けた人がいます。

 

言葉のリンクをしっかり手にしている人は、エネルギーが動くのでしょうか。このタイプの人は、やはりなんといいますか、私の目から見ていて、男女問わず圧倒的に人に「モテ」ているように見えます。

 

このモテの人は、わりといつも、言葉を疎かにしないんですよね。言葉の扱いが丁寧な人は、やはり対人関係においても扱いが丁寧ということなのでしょうか。一緒にいて、すごく居心地がいいのです。だから人気も出るのだなと思います。

 

私は、昨日もブログに書いたように、自分の気持ちを瞬殺するという人生をずっと送ってきたので、自分の心の動きにやはり鈍感です。もう一度言葉と心と感情をしっかりリンクさせることから始めるのがいいなと、今日また感じました。

 

本をたくさん読んだり、美術館へ行ったり、音楽を聞いたのなら、そのたびごとに自分の心の在り方と良い言葉やぴったりの言葉と結びつけておけば、そのものから得られる素敵さに、さらに人生を花開かせるギフトが加算されるのです。

 

春がどんどん加速しています。桜の季節を通り過ぎ、萌黄の時期が近付きつつあります。動きだした時空の中で、私ももう一度、根底から湧き上がるエネルギーをつかまえられるように、足元固めをしようと思います。

上手に人の心をとらえる人が、自然体でやっていること

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もし何かアナタに迷いがあるとしたら。その答えは、自然の中、あるいは子ども達との自然な会話の中から拾い上げることが出来るかもしれません。

 

今日は、私が学んだ「人のこころをツカむ人の、自然な振る舞い」について書こうと思います。

 

子ども達との遊びの中で知った、絶対の法則

ここ最近私は、自分にとっての重要な仕事として、発達障害のゾーンに属する子ども達の会話パートナーをしています。もちろん、大学院での学びに直結しています。子ども達がいるから大学院の学びが理解でき、大学院での講義がすぐ、目の前の子ども達に活かせるからです。

 

ですが最近は本当に、彼らのお世話を私がしていると思っているのは全くの間違いなのだと思い始めています。実は彼らこそ私の真の師なのだと思うことが度々です。

 

自閉症という幅のある世界で生きている子は、チャレンジ(困難を感じるもの)の幅がとても広いのです。中には天才的な頭脳の子もいるようですし、シビアな状態の子ももちろんいます。状況は個人個人違いますし、成長によって数か月前と全くコミュニケーションの様子も変わってきます。決して一定ではありません。ただ、どの子も何らかのコミュニケーション上の困難は抱えてはいるようです。

 

この子達に接する自分を考えると、とても大切なことに気がつかされます。いつの時も「人間として私は基本が出来ているかどうか」を試されているように思います。

 

どんな基本かと言いますとね。

 

コミュニケーションの基本なのです。人として人に向かいあう時、自分が分かりやすい表現をしているかどうかとかなど。そういうことはもちろんのことですが、それよりももっと深い部分で、基本が出来てるかどうかを問われ続けています。

 

コミュニケーションの基本てなんだと思います?ずっと誤解していましたよ。私は実は。

 

良いコミュニケーションって、自分がポライトリー(上品とか、礼儀正しい)とかが大事だと、ずっとずっと思ってきました。ポライトリーであることや、昨日書きましたエレガントであることは大事な要素ではあるのですが、基本かと問われると少しずれがあるのです。

 

もっと深い部分での基本、それこそが、「自然体である、自分のこころに素直である」ということなのです。

 

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この写真の美しい子ども達のように、子どもは好きな事にそして好きな人に、まっすぐ向かいます。目の前に広がる心躍るものの存在に、体全体でウェルカムを表現していますよね。これこそが、人としての在り方で、とてもとても大事なものなのです。

 

私のお話をしましょう。

 

ASD自閉症スペクトラム障害)の子と対応するときに、たまに自分からすると、突拍子のない応答に出くわす時があります。もちろん彼らにとっては、別に突拍子のない返答ではありません。でも私にとっては予想を裏切る答えなので、とっさに「うっ!」っとなって言葉を飲み込んでしまいます。

 

こういう時にね、私は「ああ、そうだよな。彼はこう思っているに違いない」と勝手に彼らのこころを自分の色メガネで見てしまうのです。でもこれ、自然なやり方ではありません。

 

どういうことかと言うとね。誰でも、疑問に思ったら普通の場合、聞きませんか? 相手にちゃんと。「え? 自分はこう思ったけれども違ったかな」とかね。あるいは、「うわ~、私はそれはいいと思う(あるいは悪いとおもう)」と表明しませんか。そうすると、相手も自然に自分の考えを表明できて、さらに会話が弾むでしょう。でも目の前の人がぐっと言葉を飲み込んでしまったら、その場で会話はストップなのです。

 

私の場合、そういう「自分の気持ちを素直に相手に伝える」ということを、今までほとんどやってこなかったのです。言葉を飲み込んでしまうのです。でもそういう時は必ず、こちらのこころの中では「決めつけ」が発生しているのですから、相手にとってはたまったものではありませんよね。

 

言葉に詰まってそれ以上の行動をしない人は、相手に興味があるわけではないと相手に伝えていることになるのです。子どもは知っています。「ああ、こういう人はその人自身の考えだけに興味があって、ワタシには興味ないんだな」と。

 

興味や関心を同じくする人の集まりが仲間です。仲間には誰でも心を開きます。でも、心を開いていない人には、誰も心をオープンにしたいとは思わないですものね。誰でもね、「勝手に誤解するんではなくて、本当のところを聞いて欲しい」と思いませんか。

 

私も逆の立場なら、確実にそう思うはずです。でもなぜ私は良かれと思って言葉を飲み込んでしまうのでしょう。反省すべきはそこなのです。私はこれから全人生をかけて改善すべきは、こういう「オープンな私になる」というところなのです。

 

素直であること。

自分の感情に正直になること。

この二つの基盤に立つことを、どうやってしても私は手に入れなければなりません。そりゃ48年、自分の言葉を飲み込む選択をしてきた人ですので、乗り越えていくのは容易ではないでしょう。でもコミュニケーションの原点であるこの部分をスルーして、次に進むことはまったく効果が出ないのです。

 

もちろん注意点はあります。え? っと思ったからといって、いつもいつも相手を質問攻めにするのは、良くありません。

 

他の人同士がしゃべっているときに、自分がそれを横で聞いていて、無理やり割り込んで質問や確認をするのも、エレガントではありません。あくまで自分と相手が主体的に話しているときに限ります。

 

自分の感覚を素直に自分でつかむ。表現する。それは実はとてもエレガントなことなのだと思います。相手を攻撃するのではなく、相手を自分の狭い視野で決めつけるのではなく、事実を事実として認める。

 

自分が理解できていないことを、理解できていないと言うことは、実はとても勇気がいります。私はその勇気を持つことを、怖がっていたのでしょうね。でもこの勇気、持っている人ほど誰にも貶められない生き方をしているのが事実です。

 

ホント、子ども達は教えてくれます。知ったかぶりをするウソつきの大人を、誰も子どもは本気で相手にしません。本当に楽しくその分野を泳ぎ回っている人は、年齢を問わず、子どもは何にも言わなくても、すごく尊敬しています。

 

自分の感情を素直に受け取り、味わうこと。目の前の人をおろそかに扱わないことは、両立できます。それこそが次へつながる大事なことなのだと、昨日の私はまた学び直しましたよ。

 

さて、今日は家族と一緒の一日になります。彼らもまた、私の重要なこころのパートナー。昨日の学びをもとに、どんな私として夫と息子とのコミュニケーションの場を作り上げることが出来るか。少しだけ前進した私として、一日を過ごしてみたいと思います。

 

花を咲かせる人生を歩むには、この言葉が良い道案内になりそうです

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春の空気が、金沢を丸ごと包み込んでいます。桜色で縁取られた景色は、なんともエレガントですね。

 

春の陽気に誘われて、朝書いた「手裏剣」ブログをアップしてから、いてもたってもいられず金沢散策をしてきました。道を行きかう観光客の皆さんも、笑顔が花咲く昼下がり。

 

桜の時期は、日本中が浮き立つようです。そして同じようにもしかしたらこの言葉も、世界を変えるかもしれません。

 

表現を少し変えると世界も変わる

最近の講義で、ある言葉に出会いました。

「エレガント」

遺伝や分子生物学の講義の中で、社会を変えるようなインパクトのある研究であることを、教授がエレガントと表現なさっていました。「これは人類の実験史上、いちばんエレガントな研究結果だと思います」とね。

 

授業を受けていて、とても感銘を受けました。エレガントって、素晴らしく言葉自体にパワーがあるなと感じました。エレガントは、イメージとしてすっきりしていて、優れていて、有無を言わさぬ迫力もありながら、上品。そういうことがすっと脳に届く言葉だと思います。

 

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確かに、データーも得られた結果も、素晴らしいものなのです。でもなにより、その言葉を使う教授がエレガントだなと思いました。ちょうど花の咲く直前のがっしりとした幹の太い桜の木のような、質実剛健系の男性の先生です。

 

ああ、真実人間て、中身なのだなあと思いました。

存在というのは使う言葉で優美にも粗野にもなりえるのだなと実感した瞬間です。

 

ふと自分の人生を思い返すと、苦節の末でもそうでなくても、美しく柔らかな花を咲かせる人生を歩む人は、どこか使う言葉と行動がエレガントなのです。

 

上品さというか、落ち着きのあるさまというか、余裕があることもそうかもしれません。焦ってない感じでしょうかね。

ぐいっと大地に根を下ろした感じもあります。びくともしないゆるぎない芯も感じさせます。

 

そういう安定した地盤に立つ人は、どんな場所に行っても、どんな風や嵐に出会った時でも、いずれ芽をだし葉を出していきます。人と人との関係に潤いを与え、人からも潤いを得やすいのだろうと思います。

 

エレガント。決してお上品で高いところにとどまるということではありません。

 

地中奥深くから養分を吸い上げ、天に吹き上げるかのように咲く桜のように、誰にとっても親しみのあるエレガントさで生き抜くこと。今日は手帳のメモにしっかり、エレガントで生きると書きましたよ!

 

そうなんす。私、出会った言葉やハッとしたことは、出来るだけ手帳に書くようにしています。アナタは今日、どんな言葉と出会いましたか。心の中にあるワタシの手帳に忘れずに、記入しておくと良いですよね。そしてその言葉を道案内に、明日からをまた歩けばいいのですから。

大阪人は、手裏剣を投げるのが得意である?!〈社会人大学院生のおもろい日々〉

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こんな言い伝え、聞いたことはありませんか。

「大阪人は、必殺で来る!」

 

社会人大学院生のおもろい日々

大学院での五里霧中、右往左往、そして捧腹絶倒な日々が始まりました。(まだ阿鼻叫喚ではありません。論文に取り掛かるころにこういう事態にならないように、ベストつくしますわ。)

 

1年生ですし、取った授業の関係で平日は毎日学校に通っています。

海外から留学でいらした方は、もうすでに研究室で研究に入ってらっしゃいますが、私は社会人やりながらの通い通学。

この一週間は、ペース配分を会得するための時間でもあります。

日によっては、午前中相談業務、午後から発達支援関係のお仕事を済ませ、大学への長い坂を自転車で駆け上がります。

 

パートタイムのお仕事ですので、時間的には余裕があるのです。が、パート労働と言えども、気を抜いていいわけではありません。仕事は人間相手の、お一人お一人状況が違うことへの対応です。かなり丁々発止の仕事になります。だらけるわけにはいきません。

 

そこへ夕方からの、頭が沸騰するような言葉のシャワーが降り注ぐのです。一つの授業をオムニバス形式で複数の先生が担当されます。それぞれが日本有数の研究者で、ニュースでお名前を聞くような方も混ざっています。

 

これでみるみるやせ細り! とならないところが、更年期というものでしょうか。お腹周り浮き輪の厚みが増しているような気もしますが、きっと気のせいです。と自分に言い聞かせてはいますが、そろそろ現実を直視するのに良い頃合いかもしれません。

 

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幸い、私は学友に恵まれました。同期の本校配属の皆さんは、皆さん本当に才媛という言葉を絵にかいたような人となりです。留学でいらした方はすでに研究室で活動されているので、いきおい毎日顔を合わせます。(大学以外の遠隔地で受講もできます。他校で受講することも可能。その方法で大学院に通われている方も、もちろん多数。)

 

講座が終わり、頭に入れた情報を一つでも落とさないようにそっと頭を揺すらず帰ろうとする私に、温かいまなざしで接してくれます。彼女たちに会いたさに、学校に通うという気分でもあります。仲間がいるって、こんなにもやる気につながるのかと、実感する日々です。

 

ただ、すごく困ったことが授業中に起こるのです。

 

名付けて、「必殺手裏剣事件」

 夏休み前までの前期の授業は、大阪からの配信が多いのです。となると、どうしても大阪近辺にお住まいの先生方の授業が多くなります。なかには、正真正銘の関西文化圏育ちの方々もいらっしゃるようです。

 

そういう先生は大阪弁というか関西弁が「ごっつい」のですぐわかります。関西弁とひとくくりで言っても、京都弁とか、大阪の地方ごとにも違うようですし、大きく言えば北陸も関西アクセントなので、私には細かい異差はわかりませんが。

 

授業はごく真面目です。生命倫理や、小児発達医学、臨床遺伝・発達分子生物学などの講座ですので、高校時代に接した理科系の知識を絞り出し思いだしながら受けています。必死過ぎて、恐ろしい形相で授業を受けているだろうなと思います。

 

先生方、大学の教授になるような方々ですので、本当に驚くほど頭もよく語学も堪能で、しかも知識豊富です。そしてすごく真面目な授業です。子ども達の未来のために、幅広い視野をもった専門家を養成するための専攻科ですから、勢いそうなるのでしょう。

 

となると、どうなると思います?

 

そうなんです。大阪人、笑いの手裏剣を要所要所で放って来るのです! 

必殺です。窒息死を覚悟した方がよいかもしれません状態です。

 

とてもとてもまじめな先生方なのに、なぜか、「オチをつける」ことを忘れません。時事ネタも豊富です。専門分野についてはたぶん日本中でも一とか二とかいう方々ですが、話題の「可憐な真央ちゃんの引退でハートブレイク中」などの話が、ふいっと挟み込まれます。そういう先生が複数。なぜに大阪の先生は、サービス心旺盛なのでしょう。

 

どの講座も、驚くほど頭に残ります。授業のスライドも1時間半の講義で、わかりやすく整理されて事前に配布されてきます。当然事前に目を通しておきなさいという暗黙の了解ですな。はは。

 

先生方に、本当に聞いてもらいたい知ってもらいたい、ここまで到達して欲しいという願いがあるからなのでしょうね。

 

もっと聞きたいなという好奇心を刺激し続けられるから、1時間半飽かずに授業を受け続けることが出来るのだと思います。

 

もちろん、私は大人です。先生方の努力に任せず、自分で自分の好奇心を常に刺激し続け、自ら学ぶことが求められています。でも、自分で自分でという思いが強すぎると、とても大きな弊害が出てくるのです。

 

なぜか視野が狭くなります。自分の聞きたい情報だけを得ようとするようになりかねません。聞きたい事だけを聞くのでは意味がありません。

 

目の前のすべての出来事には必ず学びがあるのです。「受け取る準備」をしておく必要があるのです。

 

結局、学び続けることは、好奇心・知りたいと思う心なのです。強制され、威圧的に接せられることは、全くと言っていいほど学びを援助しません。難しい話であっても、自分がいかに楽しく、いかに興味深い話で心を刺激されるかで、結果は変わってくるのでしょう。

 

感情が動くということが、実は学びを加速的に早くします。良い方向に感情がアップされれば、学びは深く広くなっていきます。

 

また一つ、私は学びました。

学びの極意の一つはやはり、「人や現象が私を楽しませてくれる・驚かせてくれることを受け取る準備をする」です。きっと今日も私は煮え煮えの講義に、一ミリも失望しないでしょう。それどころか、巨大な玉手箱をそっくり受け取ることになるのですから。

 

さて、受け取る準備満タンで、行ってきます。

くるりと一回りして自分の原点に戻ると、そこで出会うものとは。

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「もしかして、手帳のリュウコさんでは?」

 

昨日、地元のメガショッピングセンターで野菜やキノコを買い物かごに入れていたときのこと。私は声をかけてもらいました。こういうことは、とてもとても珍しいことです。何年か前の手帳時代に講座でお会いして早数年。よく雑踏の中、私を見分けてくださいました。

 

「ああ原点に戻ったのだ」

立ち話を数分、そこでとても懐かしい方の名前が出ました。クローバーさんと申し上げたら、手帳界隈の方々には忘れられない大切な優しい姉のような方です。金沢で、立ち話でこのお名前が話の中で出ることは、天文学的な確率の低さなのです。

 

ただの偶然の出来事ではあるのです。でも私はこの日なぜか「ああ原点に戻ったのだ」と強く感じました。

 

クローバーさんに出会ったのは、私がなんとか一歩家から出てこれぞと思う講座などに通い始めた頃でした。会った瞬間から包み込むような柔らかいオーラ(とでも表現すればいいのでしょうか)で、目の前の人の心を和ませてくれるのです。あれほど細い方なのにまるで神社仏閣にある大きなご神木を思わせる方でした。

 

これからどうやって自分の人生を立てていっていいのか、全くの五里霧中の状態の私でした。でもその頃から、何かが変わっていったのです。こういう先達たちの一挙一動から、素直に学べばいいのだと気がついたからです。

 

愚直に学べばいいのだ、出来てないのならトコトンまで一度やってみればいいのだ、そのための教材は山のようにあるということを教えてくれた方。

 

もうどうやってしても会うことは出来ない方なのです。川の向こうに行かれてしまった方なので。でも、どんな瞬間にも人は人の中に生き続けることが出来るのだと、その日私は明確に知ったのでした。

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最初の出会いから何年も経ちます。私は住む場所も変わり、意義のある仕事も得、子どももヒヨコだと思っていた子がもう羽をバタつかせる年になりました。状況は大きく変わっているのです。

 

今、大学院の学びが始まりました。授業を昨日までに4講座受けましたが、とてもとても自分にとっては衝撃的な時間でした。一年生に入学してきた皆さん、それぞれがすごいキャリアの方々でした。講義を受けながらなぜか自分を恥じていました。どうして自分はこんな場違いな場に来てしまったのかと。

 

講義の内容が素晴らしいだけに、頭をフル回転させてやっとついて行っている自分と、周りの方々のすずやかな顔を見比べて、ため息をつき始めていたのがまさに昨日。その日が来ることを知って、偶然が偶然を連れて来てくれたのかなと、感謝せずにはおれません。

 

でも大事なことはね。偶然は偶然には来ないのです。こうやって人から人を通じて、自分の元まで届けられてくるのです。

 

自分は自分。私はまた一回りして、学びの場に立ったということを思い出せば、もう何も怖くありません。知らないことを知るチャンスがあるということは、恐怖ではなく、喜びなのです。

 

この年になってもおそらくこの先も、私は出る先、行く先で年齢は高くても一番キャリアのない人かもしれません。でもそれを、なんにも恐れることはないのです。そう教えてくれた方が、私の人生には確かに存在したのです。分からないことは知ったかぶりせず素直に学び続ければよいというだけの事だったのです。

 

知らないことを知っている! と言いたくなった時が一番、人生ではつらい時期なんですよね。知らないことを認めちゃえば、なんと楽になるのでしょう。そしてその分野では知らないこと満載でも、自分の経歴でなにか他の方にお役に立つ部分はどこかにある可能性はちゃんと残されていますもの。

 

ぐるり~っと人生を回ってきて、そこで出会ったのはなんとも鮮やかに人生を生き抜いた方がもたらした温かさだったのです。誠心誠意目の前の人と向かい合う生き方をすることの大切さを、今一度思い出す日が来たのです。

 

人は人に出会って、その価値を倍増させるのだ。いずれ、何年か先、誰かがふと過去を振り返って「そういえばそこにあの人が確かに居たのだ」と思ってもらえるように、今日一日を生きてみようと思います。 

大人が、やる気を長続きさせるコツは。

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ここ数日、やる気と勉強を長続きさせるコツのようなものについて、いろんな方面から情報が入ってきています。

 

昨日大学院の講義がスタートし、この場でもなんと、同じカテゴリーの言葉を聞いたのです。やる気と成長のための大事なつながりについて、今日はシェアーしたいと思います。

 

必要なのは「自然で洗練された方法」

昨日、ついに大学院の講義がスタートしました。怒涛の一時間半の講義を二本。

 

ああ、この知恵熱の出そうな状態、生まれて初めてかもしれません。昨夜はまあるいお月さんの下、煮え煮えの頭を夜風で冷やしながら帰宅しました。

 

大学院での研究は、徹底してエビデンスを要求されます。その結果が出るのは、なぜ?良いと言えるその根拠はどこにあるの? ということです。科学的な目で実験の課程を精査し、誰が実験しても結果が同じになるような明白さが必須です。

 

そういう研究を続けてきた方々が語る言葉には、とても共通点があります。子ども達の命を守りそして発達の手助けをするためにこれだけは知っておいてほしいという根幹のようなもののようです。

 

それこそが「自然でかつ洗練された方法」という考え方。この方法は実は子ども達をじっくり観察することから得られる情報です。

 

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スムーズに育っていく子ども達が何をやっているのか、じっくりと観察してみるといいですよ。読み聞かせなどで小学校に出入りしている方は、素晴らしいチャンスです。

 

彼らがどう遊んでいるのかに注目してみてください。どうやって友達とコミュニケーションを取っているでしょう。どうやって会話を開始し、いかに会話をつないでいるのか。そういうことから、大人が学ぶ番です。

 

実はね、大人が子供にアドバイスするときに、全然的外れな提案をしていることが多いと、教授方はおっしゃいます。子供の方がまったくもって正しい行動をしていることが多いのではないかと、推測してらっしゃいます。

 

子どもが飽きることなく他の子どもと関わりながら遊んでいるとき、どうしていると思います? 全く意見の違う子といさかいながら遊んでいるでしょうか?

 

違いますよね。関心が共通している部分のある子と、その共通している部分について一緒に楽しんでいます。泥遊びが好きな子は、泥遊びの好きな子とコネコネしてますよ。木のぼりの好きな子は、外遊びの好きな子と風を切って遊んでいます。

 

一人で遊ぶより、おそらく2倍も3倍も楽しんで長時間遊べると思います。なんのことはない会話が続くことが、楽しさを増やしているように見えます。

 

子どもの発達も、大人が考える「勉強が良くできる子に育てる方法」は、実は全く持って真逆の効果を与えていることが多いのです。本当にやる気になり、そして持続させるためには、そこはかとなく会話が続く興味関心を同じくする仲間が存在することの方が、よっぽど効果的なのです。

 

現在、大学で研究されている発達を支援する方法も、「普通の赤ちゃんや母親が自然にやりこなしている動き」を徹底研究して、その理論を応用しているようなのです。自然な人間らしい方法を、私たちは持っているのならば手放さなければよいのです。

 

大人もね、同じことをすればいいのですよ!

 

私も、今回ほぼすべての講義を、誰かかれか同学年の友人と机を並べて受講することになります。孤独じゃないのです。どの人も「学位を取る」という巨大な目標に向かって真剣な目で学んでいます。

 

別に同じことをしているわけではないけれども、でも私はグループに所属しているという感覚。この仲間がいる感覚があるからこそ、私もやれる・やってみせるという強い決心につながっているような気がします。

 

何かつながりを感じるとやはり人はなにか「生かされてるな」と感じることができます。私の経験をお話しましょう。

 

私の友人で、医療や技術分野に精通したすごいハイレベルの方がいるのです。私が論文読解で苦吟してることをで知って、そっと英語論文を読むときにその方が使っている方法についてアドバイスをしてくれました。

 

私にとっては、はるか彼方に輝く星のような実力のある方が、でも私を友人の一人として認めていてくれる。そう思うだけで、やっぱり一歩でも二歩でも前に進みたいと思う気持ちがアップします。

 

「ほら、こんないい方法があるんですよ!」ってことを、伝えたくなる人がいることは、人生をとても豊かにします。情報を伝え合うことが、結果的にすべての人をよいスパイラルに巻き込んでいくような気がします。

 

アナタがどんなに違う場所にいても、ああ、あの空の下で元気で活躍しているのだなと思うと、何時か私もそういう高い場所に行きたいと思うのです。そのためには、今、目の前にあることに取り組もうという気持ちになれますよね。

 

大人って、日々の生活に身も心も削られてしまいがちです。やる気や勉強って、体力が奪われるとまるでゴム風船の口が開いたように、ぷしゅ~っていう勢いで減ってしまいます。

 

でもそういう時に、やる気のほころびを繕ってくれるものこそ、「興味関心を同じくする仲間」なのだと思います。アナタがね、「あの人にこのことを伝えたら、きっと楽しんでくれるだろう」と思う、まさにその人のことですよ。

 

人は、どんな状態にあっても、やっぱり人の心根の温かさを必要とするように思います。私は友達たちに助けられている。ならば、私自身も温かな人であろうと、そう決心した明るい月夜の物語です。

手帳が私にくれた物は、フォレストグリーンと新車一台分の価値(後編)

 

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 手帳と新車一台分の価値が大学院でつながると言ったら、アナタには不思議なことでしょうか。私はとても大きな気づきとなりましたので、この価値のお話をぜひシェアーしたいと思います。

 

では、フォレストグリーンの話から続く、手帳シリーズのお話をご覧ください。

  

新車一台分の価値を、何十倍にも活かす場所に巡り合った話

先週半ばのことです。急きょ、大学院での教授との面談が設定されました。今後の研究の方向性を定める必要があるからです。

 

金曜日の午後に研究室においでくださいとお返事がありました。私は朝の会合後、桜の開花の音が聞こえそうなピンク色の道を、大学へと上って行きました。

 

大学院博士課程に入るにあたって、研究計画書を大学院に提出しています。入試の判定に大きくかかわりますし、大学院にとっても私を知る重要な情報になります。

 

もちろん、計画の段階で、すでに指導教官とは方向性についてお話はしてありました。でも、実際本当にこの3年間で、今の私の持っている能力と環境で実行可能なのか、再検討しなければなりません。

 

私が望んでいることは、「親と子の関係性をどう支援していくか」です。コミュニケーションとはいったいどういうものなのか、はたして私たちはそれをどう会得しどう使いこなしているか、またどうやって支援の場に活かしていくかを、知りたかったのです。

 

本当に有効なメソッドというものは、使い道が限定されません。つまり、決して発達障害の親子の支援に有効であるものは、当然すべての親や子の関係性に使えるものになるということです。

 

どういうことかというと。例えば、とても歩きやすく整備された道があるとしましょう。桜の花が満開で、小川のせせらぎや小鳥の声も聞こえてきます。

 

この道は車いすの人や、足を怪我した人、視力の弱い人にも通行しやすい道です。ではこういう道は、元気な子供には不向きでしょうか。いいえ、むろん彼らなりの楽しさを見つけて、元気よく駆け回るでしょう。それと同じことです。

 

当日の話し合いは、研究の方向性はやはり、当初の計画分は要検討ということになりました。自分がやりたいアイデアをやるには、私の場合、力が足らなさすぎでした。

 

教授はその辺を十分かっていらっしゃって、もし私がそれでも強行したい決断すれば、ご自分がフォローを引き受けざるを得ないと覚悟までなさっていたようです。

 

というわけで、仕切り直しです。やりたい事があるアプローチしたい人がいるということが大事なのでと、教授には励まされました。大学院ですから、やりたいことがない人が来る場所ではないということなのです。

 

その上で、まずは論文を読み進み関連分野への理解を深めることとなりました。教授はにっこり笑って査読付き論文3本を手渡してくださいましたが、一本は英語でした。ふふふ。

 

そして、ここの博士課程のカリキュラムは一年次は大変だよとおっしゃいます。講義を10単位(5授業)以上取らなければならず、社会人には負担が大きいということなのだとか。

 

でもね。私の所属している院の1年次導入課目、どの講座も内容が本当に魅力的なのです。医学、心理、教育のそれこそ日本有数の先生方が講義を担当するのです。

 

校舎が5つの大学にまたがっているので、講義は各校の先生方が出しますが、それを私は基本地元の校舎でビデオを通じて受講します。遠隔地の方は、数時間後から自宅のパソコン環境で受講し、毎回レポートを出すことになります。(社会人に対応したシステムですね。)

 

発達障害支援の現場にいますと、相談にいらっしゃるお母さん方は私達支援者が、どんな分野にも精通している前提でお話をなさることがあります。診断の方法も、お薬の話も、脳のことも、睡眠のリズムについても、学校対応も教科の勉強方法についても、何もかもです。

 

私はですから、開講予定の14講座全部取るつもりでいました。先生にその旨お伝えしました。

「あ、やはり先生がおっしゃるように、すごく大変でしょうか。私、実は内容があまりにも魅力的なので、全部受講予定にしているのですが」と。

 

教授はにっこりほほえんでおっしゃいました。

「毎日学校に通うことが出来れば大したことはありませんよ」

 

あ、でも教授の大したことないというレベルは、私にはとても! たいしたことあるレベルであることがたまにあります。入試の際も、英語は辞書持ち込み可だから大したことないよとおっしゃっていましたが、結果は推して知るべし。

 

そしておっしゃいました。「大学院に入ったということは、新車一台分ぐらい(の金額が)かかるでしょう。せっかくだから、取れる講座はどんどん取って、貪欲学んでください」と。

 

雑談ついでに、いろいろなことをお聞きしました。私は今年の新入生の中ではおそらく最年長でしょう。でも過去に入学された先輩には、大学の先生を定年退官されて(つまり65を過ぎて)から、当該院に進まれた方もいらっしゃるとか。

 

教授はおっしゃっていました。「新しい分野に果敢にチャレンジされることが、本当にすごいことだと思います。その年で知的好奇心を失わないことが、素晴らしいですよね。この方も、ほぼ毎日大学に通われて、講義を取られていましたよ」と。

 

今回、自分が新車一台分の価格を払う立場です。でも、得られる情報量や環境、使える人脈、考え付くあらゆる面においてその価値は、お支払の額の何十倍にもなって私の元にリターンしてくるでしょう。

 

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手帳の神髄ととてもこのあたりが似ていると思います。使いはします。でも受け取るものは、十二分に価値のあるものにするという決心をし、そのように行動するということなのです。

 

手帳ではね、自分が使っている時間の濃度や密度がより高いモノになっていくように、少しづつ自分を設計していくことが大事です。使う価値のある時間なのか、使用するメリットのある道具なのか、いつも楽しみながら取捨選択してくための見える化ツールが、手帳だと私は思っています。

 

大学院は、それをもっと「社会に還元していく」という色を明確にして行動していくことになると思うのです。だから、いつも検証し、実験し、行動しと続くのです。

 

どちらも、「自分と自分のやっていること、そして社会とのかかわりに対して、知的好奇心を失わない」ことが、すべての基盤にあるのです。そしてなより、やりたい事興味関心のあることがどこか共通している人々がいる場なのです。

 

手帳で自分を確認しながら進む生活は、メリットが大きいと感じています。知りたい事を知る、全部の自分を使って進む。でも体力を浪費するようなことはしない。

 

自分の歩いた後に、道はできる。そのすべてを手帳は知っていてくれるから、何も孤独ではない。そしてなにより、手帳仲間という「私と興味関心を同じくする仲間」が、そっと私を応援していてくれるのですからね。

 

手帳を、仲間と巡り合うパスポートとして私は使っていました。大学院も「その本質を明らかにしたいと行動する人々」が出会う場なのです。

私は迷わず今目の前にある細い糸を手繰って、進もうと思います。