アラフィフ、大学院生活を楽しんでみる

中年クライシス真っ只中の社会人大学院生。現在博士課程1年目。自閉症とコミュニケーションについて研究中。転勤族家族なので、日本中がホームタウンのつもり。仕事はパートタイムで、消費生活系相談員してます。コメント大歓迎です。

何歳になっても、新たな美しさに出会うチャンスはある

 この世の中は、まだ自分の知らない美しさであふれているのだ。見ようと思えば、知りたい出会いたいと切望していれば、何歳になっても新しい美しさと出会うことはできるのだと気付かされる事件がございました。

 

 私は今まで、本当に平々凡々と生きてきてしまって、自分の視野だけでものを見ているので、他の人が何を美しいと思ってるのか理解できなかったことがとても多いのです。

 

 特にね、連れ合い君との関係間でこういうことが私には頻発しておりました。私が「ちょ~」のつく文系人間で数学的思考が全くダメな人に対して、連れ合い君は私とは真逆の「ぶっとび」がつくほどのデジタル工学系人間。結婚して20年は超えてるのに、今まで彼の目に映る美しいモノを私は見ることが出来なかったのですよ。

 

 え?何の話かですって。よくわかるように説明して欲しいですって?はい、では今日は美しさに出会ったお話をいたしたいと存じます。

 

 事の発端は私が大学院の演習授業に出席したことからでございます。

 

 現在大学院2年目。演習授業と申しまして、4日間の集中講義に出かけて参りました。私の人生初のある美しさに出会ったのは、その講義の最中でございます。

 

 私の所属院は5大学が連合して形成しておりましてな。一年次はいわゆるテレビ会議のようなシステムを使って、あっちこっちの大学から発信される講義を受講します。

 

 2年目以降は、座学を受けているだけでは間に合わない深い内容に入ってきます。(もちろん平行して、自分の論文に各自取り組みつつではございますがね。)授業は自分の好みでとることが出来ます。

 

 ホント講義内容がさまざまに用意されておりましてね。大学院の大きなテーマは自閉症です。これを医学、心理学、教育学その他周辺の様々な領域からアプローチしているわけです。チョイスによっては、病院診察陪席ありの、動物実験ありの、統計ソフト解析ありの、MRI撮像も用意されております。何しろその道のプロ中のプロがやっていることを真横で見ることができるまたとないチャンス。

 

 今回はそのうちの疫学統計学。高校時代に数学をクッシャクシャに丸めて投げ捨てた私にとっては鬼門の学問。だからこそやらねばならないのですが、一年次に授業を取った時には大泣きしましたもの、理解が及ばなすぎてね。

 

 それでも、敵もさるもの(あ、教授陣は敵ではないのですが、意識としてはそんな感じです)。用意されたテキストや課題の洗練されていることと言ったら、驚くほどでございます。こんな私のような信じられないほど低レベル脳の人間でも、講義が終わることろには統計の意味するところがおぼろげながらに理解できるようになっておりました。

 

 学友の皆さんはすごい人ばっかりでね。本来所属の博士課程は3年なんですが、すでに(たぶん一番若い海外からの留学生)論文書き上げて、ポジションの高い雑誌に投稿済の人もいます。天才の中に凡人ひとり~。歌うたいたくもなっちゃいますよ。

 

 演習始まる前は、実際お腹痛くなっちゃいました。だって私、わからなさ過ぎて、こんな質問したら絶対先生に呆れられるから言えるわけないと思っていました。でも、ここで引き下がったら未来は全くないのです。

 

 来年度いっぱいの間に英語の論文書き上げて投稿しなければ学位には手が届かない。何のための自分の人生!いかんリュウコやるんだと気持ちの上ではねじり鉢巻きをぐるぐる巻きで、先生に質問しました。

 

 え?なんて質問したかですって?はい。先生のお洋服のすそをぎゅっと握りしめて「先生、私さっぱりわかりません」と。ははは。

 

 ところがです。先生方プロですねえ。待ってましたとおっしゃいます。分からないことを理解しようとするなら、恥も外聞も捨てて聞くことからだと。海外の(びっくりするほどの)著名大学で教鞭をとるほどの先生方だから、日本人が恥ずかしがって何も聞かないのをずっと「もったいないな」と思ってたんですってさ。

 

 まあそういう風にして課題をこなすうちに、3日目だったかふとあることに気が付きました。そうなんです。数式ってね美しいんですよ。あれほど「タコが踊っている」程度にしか見えなかった数式、log だの x だの y だのが、非常にクリアな美しさで記述されてるんだということに気がついたわけです。

 

 確率なので、正規分布曲線を考えるわけですよ。ほら、偏差値を出す時に使う山形の曲線ですな。今までの私は、「あれは嫌いだ!悪魔の呪いに違いない」と思っていたから、目に映る曲線も嫌い色になっていたのでしょうね。ところが、「私でももしかしたら理解できるかもしれない」という希望を持った瞬間に、目の前の霧は晴れるのです。見えるんですよ、今まで連れ合い君が見ていた「美しさのかけら」が。ええ、まだかけらでしょうね。全容が見えたわけではないと思います。

 

 思い起こせばその昔、結婚したてのころに連れ合い君が私に力説したことがありました。彼はかなり鉄分(鉄道おたくの気質)がたっぷりな人で、どうも息子ちゃんも鉄分たっぷりに育ってしまったのですが、それは余談。えっとそう、乗るのを愛する乗り鉄な人でしてね。当時東京近辺に住んでいたので、中京圏への帰省の際に18切符使って在来線各駅停車使う人。私は旅行好きだけれどもそこまでではなかったので、とてもびっくりしておりました。

 

 だから私は質問したわけですよ。「なんで、そんなに鉄道好きなん?」と。

 

 連れ合い君は答えたね。「だって、美しいでしょ。一本前に走って行った列車と今(乗っている)列車は同じまったく同じ軌跡を通るんだよ。この美しさ!リュウコちゃんは、なんでこれをきれいなんだろうとは思わないの?」と。本当に不思議そうに私に逆質問するわけです。だって彼には美しさこの上ないモノとして見えている景色なんですものね。

 

 なんとねえ、その言葉を聞いてから20年超。もしかしたら一生涯かかっても、彼の見えている美しさに出会えないかもしれないと悲しい思いをしていた自分でした。20代の私、30代の私には出会えなかったものが、40代も暮れようとする今になって見るためのプラットフォームに乗れたわけです。

 

 その時のうっとりした彼の目の色を思い出し、やっとこさ私にも「軌跡の美しさ」が見えたことに喜びを感じておる次第でございます。きっと数学好きであの中に美しさを見出せる人は、私が見たことがないおしゃれな方法をいっぱい楽しんでるんだろうな。

 

 もし、知りたい事やってみたい事があれば、それはあきらめる必要は一切ない。人生まだまったく終わってないんですものね。

 

 今の私はこの数年自閉症の研究をしているので、自分とは違うものの見方考え方をしている子ども達にたくさん出会い、彼らから刺激を受けたことも自分にとって好影響だったのだろうと思います。彼らと上手くコミュニケーションが取れたときには、彼らの持っているすごく豊かな感覚というか考え方というか存在のすばらしさというか、言葉では表しきれないすごさに心打たれることが私は多いのです。

 

 見えている美しさはそれぞれ違う。大切にしていることも、感じ方も違うだけ。どれが正しくて、どれが劣っているということでは一切ない。どの人も必ず、豊かな美しさを目の前から受け取りながら生きているのだと、改めて感じたここ数日でございました。

 

 気が付かなかっただけで、すでに豊かな世界を手にしていた自分。地球はおそらく美しさで満ちている。困難にぶち当たって、後ずさりしてもいい。その場に立ち止っても何ら問題ない。でもそれでも、もし見たいと望むなら、自分が切望して動きだしたその日には、豊饒な世界にたどり着くための道、一本のはしごがかけられるのだと知ることが出来たのです。

 

 この世界を絶え間なく流れる美しい流れを、私は自信を持ってもっと受け取っていいだと得心した夏日の一コマでございました。